今年のお盆は久々に高知に帰りました。思い立って帰れないのが秘境の田舎で、友の一声で心動かされるままに三日前に決断するなど、何とも親不孝な人間だとつくづく思い知らされるこの頃であります。何もすることの無くなった元高校球児(厳密に言えば卒業までは高野連所属の会員だが)とその下の次男(高校球児だが全国には程遠くお盆もお休みの高校所属)を引き連れ、大分臼杵まで約2時間半、愛媛八幡浜までフェリーで2時間20分、そこからとてつもなく眠たい山間を3時間、到着は朝6時で最後の30分は覚えていない。数年前までフェリーに乗ると喜んでいた子ども達も今は携帯にイヤホンと何とも花がない。
花がない中、この日は「よさこい祭り」の最終日で高知は熱気であふれ、全国各地から本場よさこいを見たいとわざわざこんな田舎にと毎年関心させられる。実際私も学生時代や社会人になっても「よさこい」の虜でこのシーズンが訪れるのが楽しみで仕方無かったのを思い出した。カツオの刺身、ウツボのたたき、まいご(貝の一種)や高知のお酒を親兄弟と返杯返杯で酔いも最高潮。うちの「おかん」と妹夫婦が「お兄ちゃん、踊ろうや!!」と夜のクライマックスでもうごちゃごちゃになった踊り子に混ざって、酒も抜けるほど昔取った杵柄と言わんばかりに乱舞。おかんは相変わらず酒量が変わらず、今でも一升はおそらく飲み干す「はちきん」で妹がその血を間違いなく引いている。最終日の高知の町は踊り子たちが全員仲間で全員家族の様になる。その一体感が多分たまらないのでしょう。私の後ろに参加していた20歳台のカップルは当日富山県から旅行で高知入りし、恥ずかしい感じもなく一緒に踊っていたし、この県の土地柄は人を受け入れる文化があるのだろうと故郷の良さを改めて感じました。
今から約160年前、文久の時代、土佐の国は果たしてそうだったのか。四国山地で閉ざされていた土佐は長曾我部の子孫である郷士(下士)と山内家からなる上士との間で厳格な身分制度が敷かれ、現在の高知とは如何ほどにも文化が違い、いつから自由闊達な文化が形成されたのか実に興味深い。1862年に坂本龍馬は那須信吾親子の案内で澤村惣之丞、吉村寅太郎らとともに四国山地の険しい山間を静かに脱藩、維新動乱の渦中に身を投じた。以降京都を中心に若い志をもった志士達が壮烈な死を遂げていく。
福岡までの道中、子ども達に梼原町の「維新の門」に立ち寄る事の了承を得た。回り道の許可を取ったという方が適切かもしれない。3m近い巨大な8名の志士の群像、今自分が志しているものとシンクロされたのか、言葉にならない。子ども達もじっと群像に魅了され、幕末の時代の話になった。何気ない会話であったがおそらく何かを感じ取ったのかも知れない。来てよかった。
司馬遼太郎さんの小説を始め歴史本も読みあさった時期もあったが、ここに来るとまたその情景が脳裏に映し出される。おそらく近代日本の始まりは、新しい時代が来ることを純粋に信じ死と隣り合わせの中、青年たちが時代を駆け抜けていったことから始まっている。その土佐の原点がここにある。
彼ら志士があの時動かなかったら、今の高知の文化はなかったのだろう。ただ土佐の人にその土壌はあったのかもしれない。富山のカップルに「鳴子」を一つずつプレゼントした。良い思い出になってくれればと思った矢先、同じ踊り子隊の中に防衛大臣の役を終えたばかりの中谷元さんも乱舞していた。偉い人も普通の人も今はみんな一緒に踊れる世の中になったということ。